正直者のブログ
ここは、私の言いたいことを勝手に書きまくるページになりました。
本心を書きます。読むと腹の立つ人もいるでしょうが悪しからず・・・
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2018.8.28 高齢化社会の独り言
前から気になっていたことを言います。
現在はもちろん高齢者社会ですが、これからは確実に「独り言社会」へ変化します。どんな意味でしょうか?
私自身はこのことを実はもう数多く体験しています。どれも非常に失礼な話で頭にきました。
2例を紹介します。
その1 銭湯
私は銭湯が好きです。
その日も早い時間に行きました。当然空いていました。
湯につかってのんびりしていました。とても気持ちが良く極楽気分でした。
その時でした。すぐ近くから声がしました。
「〇〇〇〇〇」
間違いなく私へ掛けた声でした。私は声の方を見ました。一人の老人でした。
その老人は、私のすぐそばで、窓から見える外の庭の方を見ていました。まったく知らない人です。
「この人は誰だろう? 私に向かって言ったのか? 何を言ったのか?」
焦りました。私は、「コエタ」と聞こえました。どういう意味なのか?
ちょっと考えた結果、「超えた」とか「越えた」が今の自分にしっくり当てはまりました。
私はここ数年間大変なことがたくさんありました。人生で初めて逮捕されました。
なので、これは「逆境をよく乗り越えたね」という意味で、私への励ましのことばだと判断したのです。
私は何となく嬉しくなりました。
しかし、どうしてこの老人がここ数年の私を知っているんだろうか? 誰だろう?
思い出せませんがとにかく良い人だと思いました。
ところがその時です。その老人が今度はこう言ったのです。
「あんた、100キロある」これは明確に聞こえました。
私はえっ?と思いました。(何のこと?)
でもすぐに解りました。この老人は私の体重のことを言ったのです。
それで、やっとさっきのことばの意味が解りました。「コエタ」は「越えた」の意味ではなく「肥えた・太った」だったのです!
私は唖然としました。そして、はらわたが煮えくりかえりました。ふざけやがって!
どうして私が100キロもあるように見えるのでしょうか? 断じてそんなに太っていません。
それにしてもこんな失礼なことをそれも見ず知らずの人に平気で言えるものでしょうか?
ところがもっと驚いたことは、私の方を一瞥もしないのです。
その老人は、さっきと同じように外の庭の方を見ていました。
私は、その時このジイさんは私のことを以前から知っていたわけでも何でもなく、その時に思い立ったことを
単に言い放っただけだと確信しました。
つまり、これは「独り言」なのです。
独り言は他人との会話(コミュニケーション)の成立を望んだものではありません。
このジイさんは私との会話は最初から求めても望んでもいないのです。私は呆れました。
そして、これからは普通の会話とコミュニケーションが消え去り、ジジイたちの勝手で失礼な独り言だけが
動物のように響きわたるアフリカやアマゾンのジャングルのような世界になると感じたのです。
結論を申し上げます。これからは、高齢者は若い人の見本になるわけがありません。
今までも実はそうでした。しかしこれからはそれどころか間違いなく極めて面倒で迷惑な存在になるのです。
なので、私は80歳には死にたいと願っています。これが高齢者の出来る最善の社会貢献だと思うからです。
2018.8.3 ゲイとレズと水田代議士
「LGBT(セクシャルマイノリティ)は生産性が無いので予算を使うことは無意味だ」
杉田水脈代議士のこの物議を醸した発言は何を意味するのだろう?
簡単な話。頭の悪い女が周囲の雰囲気に乗って考えもなしに言ってしまったというのが本当だろう。
結局は、周囲へのおためごかしとご機嫌取りでしかない。
では、「周囲」とは?
安倍総理に決まっているではありませんか!
それにしても頭の悪い女だと思う。救いようがない。安部もきっと思っている。
「同感だ。よく言った。ただし、言うのはまだ早いよ。」
杉田はきっとまた当選するだろう。今の選挙ってそんなもんだからだ。
そう言えば、私は生まれてこのかた選挙に行ったことが一度もない。
理由は簡単だ。立候補者に積極的に選ぶような人がいなかったからだ。だから選びようがなかった。
かと言って、わざわざ白票を入れに行くのも面倒だった。
このことである先輩と議論になったことがある。
「おまえは国民の権利を行使していない。そういう無関心な連中がいるから国が変わらないんだ!
それこそ罪だ。いい年してわからんの?」
私は言った。「もし選挙制度が変わったなら毎回必ず行きますよ。」
彼は聞いた。「それは一体どんな選挙なんだ?」
私は答えた。「代議士にさせてはダメだというヤツを選ぶ選挙です。それに国政選挙なんだから地方区なんて廃止してすべて全国区にすればいいんです。地方の声を中央になんていうアホな主張がそもそもナンセンスです。
なので、さすがにこいつは駄目だと思うヤツを落とす選挙になったら本当に喜んで行きます!
つまり、選んで挙げるのではなく除いて落とすという意味だから除落です。」
先輩は吐き捨てるように言った。「おまえはやっぱり根っからの偏屈野郎だな。勝手にしろ!」
さて、私はあの杉田大先生の「生産性」ということばに反応してしまった。
それは、「価値」と結びつく概念だ。
実は、この事こそ、私が小さい時から理解できなくて困っていたことだし不思議で仕方なかったことだ。
実を言うとこの歳になってもどう考えれば良いのか解らない。
つまり「価値あること」とはどんなことか?
この前、コンビニに行ったら窓に大きなポスターが貼ってあった。
そこには凄い数の若い女性の顔が並んでいた。見ると「欅坂46」と書かれていた。
前にどっかで聞いたような記憶がある。(へー、この人たちがそうなのか!)と思った。
しかし、すぐに驚くことに気がついた。全員が同じ顔に見えるのだ。判別不能。どうしてだろう?
もう眠くなったので続きは気が向けば来週にでも書くことにする。
でも書いたらまたクソミソに言われるのは間違いないだろうなと思うけど・・・
2018.7.13 動物刑
朝、運転していたら、たくさんの小学生たちが歩いていた。小さい子も大きい子も、黄色い帽子をかぶりランドセルを背負って元気に歩いていた。子どもって本当に可愛いなあと思った。一番前の方にいた大きめの10歳くらいの女の子が横に並んでいる小さい子とニコニコ顔で話している。何の話をしているのか? ほんとうに心から嬉しそうに笑っていた。
それを見ていて思ったことがある。
私がもしこの国の独裁者だったら・・・
少女殺人事件の犯人全員にただちに刑を執行するだろう。
千葉松戸で起きた少女殺人事件の犯人である保護者会会長に対して私が考える適正な罰を即座に与える。
こいつに無期懲役などありえない。そして、絞首刑の価値も無い。つまり、瞬殺には意味が無いのだ。
私はヤツを「動物刑」に処す。まず、まだ使えそうなヤツの臓器(腎臓)と眼球を摘出し移植希望者用に保管する。その後、いろいろ食わせて太らせる。そして、6m四方の独房に入れる。だいたいボクシングのリングの大きさだ。
ここから5日間の「動物刑」が執行される。最初の日にスズメバチを投入する。刺されてポンポンになるだろう。その翌日には興奮させた気性の荒いゴリラを入れる。殺された少女と同じようにヤツは恐怖でただただおびえることだろう。それから、3日目には10m級のアナコンダ、4日目は大型のクロコダイル、そして最終日にはライオンを入れ替える。
もちろんアナコンダとクロコダイルそしてライオンは空腹だ。
刑が終了したらハイエナたちにすべてをきれいに片付けてもらう。
ただし、ヤツが傷ついてもすぐに失血死しないように時々救助する。そして輸血する。
ただし、人間の血でなくて蛇やスッポン、オランウータン、そしてマグロの血液だ。人間に他の動物の血液を輸血したらどうなるだろうか?それを食った動物たちはいったいどうなるだろう? このような異種間輸血に関する貴重なデータを蓄積するのだ。
そして、世界中の国に上記の動物刑を採用させ、刑の一部始終を録画して世界中の10歳以上のすべての男に強制的に見せるのだ。
2018.7.9-(4) 半落ち
WOWOWでやっていた。たった今、見終わった。涙で目がかすむ。
言いようのない感動、そして、心に響く重くて熱い衝撃!
オレはこれから何をどう考えて何をすれば良いのか?
三つのことを予感し確信する。
1.この映画を死ぬまで忘れないだろう。
2.この感動は絶対に風化しないだろう。
3.このことを人にしゃべりまくるだろう。
数年前に同じような映画を見た。同じくWOWOWだった。洋画「ハンズ・オブ・ラヴ」
マイリーサイラスの曲に身体が震えた。
そして、最後の場面のあまりにも切なくて震えの来るような感動・・・
この二本の映画に批評などあり得ないし不謹慎だ。ただ、ひれ伏すのみ!
オレは忘れていたことを思い出した。オレの喜びはただただ「感動の共有」だった。
この感動にずっとひたっていたい。誰かと一杯やりながら、語りながら、静かな星空を眺めながら・・・
あっ、こんな時こそ「青い丘」がいいなあ 今度、今井ママに頼もう!
2018.7.9-(3) 栃ノ心と西郷どん
1.先場所の栃ノ心には感動した。そして心から満足した。
その前の取り組みで鶴龍がはたき込みをしたのを見て腹が立ったこともすっかり忘れることができた。
ところが・・・
最近の何人かの力士は、最後の仕切りの後、急に小走りになる。栃ノ心もそうだ。
どうして、急にあんな小走りをするんだろうか?まるでそのシーンだけがコマの早送りだ。
大相撲ならではの気迫と秘めた闘志に満ちたムードがいきなり住民運動会のそそくさした場面に変化する。
その「軽さ」に伝統の美しさも消えてしまう。これは、自分の知る限りでは白鵬がやり始めたと思う。
見た時にすごい違和感を覚えた。そして、その時、白鵬は相撲も協会も視聴者も何もかも全部をなめていると感じた。
でも、取り組みそのものは素晴らしい!力士同士が全力でぶつかる!凄い!もちろん白鵬も素晴らしい!
だからこそあのちょこちょこ走りは辞めて欲しいと切に願う。
でも、もっと腹が立つのはそれを重鎮連中が指摘しないことだ。思ったことをズバズバ言うあの商売人の舞の海も辛辣軽口タイプを売りにしている北の富士も多分「ちょっとあれはねえ」と本心では思っているに違いない。でも何も言わない。
しかし、極めつけは協会が何も注意しないことだ。
結局、力士は誰もが素晴らしい。しかし、運営主体の協会は組織として壊れている。
2.西郷どんの鈴木亮平はほんとに爽やかですごく格好いい。性格も何もかもが良いなあと思う。
しかも彼は背が高い。私があのくらいの身長だったら間違いなくプロレスラーを目指しただろう。(私は中学生の時にアントニオ猪木を崇拝していた。今はもちろん違うけど)
他の出演者も素晴らしい。二階堂ふみも、瑛太も、みんな凄い!
過酷な時代である幕末に人生を捧げた若者たちの美しくも清冽なレクイエムを完璧に演じている。
ところが・・・
とにかく残念だけどこの番組の演出が下手だ。とにかく無言で二人が相対する大事なシーンがダメだ。
全然なっていない。冗長でダラダラしている。たぶん鈴木もそうだし他の俳優たちも違和感がある筈だ。
この原因は単純だ。バラバラで不出来な演出にある。つまり、ドラマや物語で最も重要なファクターである「登場人物の心情の動きと変化」についての一貫した方針がないからだ。これは致命的だ。
一言で言えば人物の思いや情感をそのシーン毎に色付けして表現しようとしている。これでは小説を章単位で別々の人間が書くようなものだ。
しかし、そのことによる不連続の亀裂は、俳優たちの懸命の努力によってどうにかこうにかそれほど目立たないように静まっている。アホな演出家と馬鹿な監督の責任だ。この際替えるべきだ。
結局、このドラマの出演者全員はすごく優秀だ。しかし、制作者のNHKがだらしない。
(それで、次の結論)
NHKは総務省から、日本相撲協会は文科省から早く完全に独立すべきだ。とにかく役人の臭いも痕跡も一切消してしまうべきだ。全力士と全俳優、そして視聴者もそれを強く望んでいるに違いない。
2018.7.8-(2) オウム真理教
オウム真理教の麻原らが死刑になったという。たぶん捕まってから20年以上規則正しい生活をしていた。
彼らは間違いなく健康になっていたはずだ。刑務所は人を健康にすると自信を持って言える。
酒も煙草もない。食事は栄養十分の粗食。就寝と起床も決められている。規則正しい。運動もする。
まるで毎日が林間学校。しかも読書三昧。
私の体験では20日間の勾留で9.5㎏痩せた。出所の時は無駄な贅肉が落ち身体が軽くなり気分も爽快だった。
看守の人たちに 「いやあ、若くなられたね!顔色もよくなったわ」 と褒められた。
ちなみに「勾留」とは服役でなくて容疑者として一時的に拘束されること。
私は弁護士法違反という容疑で勾留された。もちろん不起訴で無罪だった。
今も不謹慎だがたまには20日間くらい入りたいと思う。間違いなくどんな病院よりも薬よりも元気になる。
まあ、それは置いといて・・・ある評論家と宗教学者はテレビでこんなことを話していた。
「どうしてこんな事件が起きたのか何も明らかにされていない!このままではオウム真理教事件は確実に風化してしまう。」
どの新聞も同じ論調だった。
そして、ニュースで久しぶりに上祐史浩氏の顔を見た。私はハッとした。
彼はどうしてオウムから離れたのだろうか?無性にそこを聞きたいと思った。
彼は、何かに気がついたからなのか? 何かを発見したからなのか? そうであるとすればそれは何か?
私自身は宗教をやってみようと思い立ったことはなかった。何か良い宗教がないかなあなどと探したわけでもない。自分で〇〇教と✕✕教を調べたうえで、こっちの方がいいなあとかこっちの方が優れているとか比較したこともなかった。
つまり宗教に関心が無かったわけだ。ところがそんな私なのに今までいくつかの宗教と「遭遇」し、なぜか没頭した。
そのすべてはひょんな偶然からだった。そして、その全部から結局「離脱」した。
そのきっかけは何だったのか? 何が起きたのか? 何が変わったのか?
時々その一部始終が鮮明に蘇る。私が体験した数度にわたる複数の宗教との「遭遇」と「離脱」はいまだに風化しない。
自分の過去を確実に支配していた何かが鮮明に映し出されるからだ。
だから、事件の被害者や深い宗教体験者の過去は絶対に風化しない。
この「遭遇」と「離脱」の両方を体験した者だけが宗教に関係するすべてのテロや事件の謎を解き明かすことが出来る。この「遭遇」と「離脱」の体験がない人はこの秘密を永遠に理解できない。宗教学者も心理学者も同じことだ。
そして、オウム真理教事件はこのような「理解できないので幸せな人たち」の中で確実に風化するだろう。
2018.7.8-(1) 気象庁
このところの大雨で気象庁の予報課長と気象予報士たちが懸命に叫んでいた。
「厳重な警戒が必要です」 「最大級の警戒をしてください」 「数十年に一度の大雨が予想されます」
いったい何をどのようにするのが厳重な警戒なのか?
「最大級」の定義を詳しく説明しろよと言いたくなる。
「数十年」て何年?
「危険なところには絶対近づかないでください」 そんなことは言われなくても解ってる。
だったらどこがどのくらい危険なのか詳しく言えよと言いたくなる。 しかし、どこもかしこも危険ですとしか言えない。
「どうか命を大切にしてください」 漫才でも言わないようなことを、いかにも心を込めたような顔で訴えている。まるで演技派男優。話は簡単。こう言えば良いだけだ。
「そこからとにかくはるか遠くに逃げてください。できれば国外に!」
結局、気象庁の意味とは何なのだろう? 何が目的なのか? どんな実効的な意味があるんだろう?
私たちに自然災害の危険についての注意を促すことが目的であり彼らの職務なのか?
それを無意味だとは言わない。しかし、災害を可能な限り防ぐことこそ重要だ。誰でもそう思っている。
それにもかかわらず現時点での「予報」「警報」はそれが自己完結作業となっている。つまり、そこから先のことは、「気象庁には解らない、気象庁には責任がない、気象庁はそもそも何もしない」である。気象庁は言うだろう。「俺達の任務は予報だけだ!」
でもそこが問題ではないか。予報は防災のためのものだからだ。
多くの被災者は困窮の極みだ。その状況は目を覆いたくなる。
この国の政治関係者に「未然の防災」という考えがどうしてないのだろうか?怒りを感じるのはオレだけじゃない!
いつも、災害が起きてから大臣たちが長靴を履きヘルメットをかぶりそして作業服姿で慰問に訪れる。見せかけの極み!
調べてみるとウィキペディアにこんなことが書いてあった。
2012年8月の第38回気象予報士試験において、沖縄会場で実施予定の試験が台風15号の影響で同試験史上初の延期となった。
気象庁自体が今の世のごまかしと嘘っぱちの構造を象徴しているかのような役所で、気象予報士はこのふざけた構造にしがみつく寄生虫のように見えてしまう。そう言えば、気象庁の役人(他の省庁の役人も同じ)と気象予報士に共通点がある。
別に危険なところに行くわけでもないのに時々ヘルメットをかぶって作業服を着ていることだ。
まさしく「見せかけ」の象徴。
私は、もう一度生まれ変わったら気象庁に入りたいと思う。仕事は簡単そうだし、安全そうだし責任もなさそうだからだ。
きっと毎日、時間がゆるやかにたっていくことだろう。ストレスもなく長生きしそうだ・・・
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2018.7.2
前回書いたことについてある人からご注意を受けた。と言うよりボロクソに言われた。
「ヨガのサイトなんだからヨガについてのことを書いてよ! あんな変な言いがかりは失礼だよ」
「そのうち、誰もいなくなってしまうよ。」
私は素直に反省したけどその一方でもっともっと思っていることを言いたくなってきた。
2018.6.23 アナウンサーと気象予報士
アナウンサーはある意味で凄い!
少女が悲惨な死に至った最悪の事件を耐えられないような悲痛の顔で話している。
しかし、その直後に「さて、スポーツです!」と言って表情が歓喜モードに激変する。
それまでの悲しみに満ちた悲惨な事件は一瞬にして「終了BOX」に葬られる。
このモードの激変に私はいつもついて行けない。
実は同じようなことを「気象予報士」に感じる。
彼らの間でより正確な予報を目指そうというテーマについての意見交換や議論はあるのだろうか?
何となく思う。結局は気象庁が公表する予報の単なる忠犬メッセンジャーではないかと?
それなら「予報士」ではなく「伝達人」だ。
しかし、予報士と言うなら「より正確な予報」を目指そうとする個々の努力は職務としての義務ではないか。
確かに「他の予報士の意見と異なり私の予報は〇〇〇です。」と言った予報士は今までいない。
結局、誰の予報も同じなのか
何となく今のシャバを象徴しているような気がした。巧妙なごまかしだけで成り立っているのかも・・・
いつからどうしてこうなったのだろう?
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